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ピアノの音は小さく遠く ――暖かい風が私の頬を撫でる ――幽かな花の香りが嗅覚をくすぐる ――この匂いは、何の花だったろう 開いた目に、強い光が射し込んだ。 再び閉じかけたその目を何とか光に慣らし、当たりの様子を確認する。 一瞬、私は自分の目を疑った。 目の前にある棚には沢山の本が所狭しと押し込まれている。 その殆どは絵本のようだ。 その棚の上にはぬいぐるみが数個置かれていた。 可愛いらしくデフォルメされた熊、兎、そしてどこか歪な形の猫。 白い壁に掛けられたカレンダーは光を反射して日付が見えない。 光の射し込む窓辺には、その光と同じぐらい白い花が咲いていた。 その花は光から背を向け、じっとこちらを見ている。 それは確か、彼女が一番好きだった花。 そうだ、ここは――彼女の、私のかつての主が住んでいた部屋だ。 そんなものが、一体どうして私の目に映るのか。 暫くの間、私は全く動くことが出来なかった。 「私は好きだったなぁ、水仙」 私の体はビクリと震えただけで、振り向くことが出来なかった。 その声がとても遠くから聞こえてきたように思えたからかもしれない。 「殆どの花はね、空を向いて、どんどん伸びようとしてる。 でも、その子だけは空じゃなくて私を見てくれてた。 何処か申し訳ない気持ちもあったけど、 でも、私は誰かに見ててもらわないと怖かったのかな。 うん……一人でいるのは、嫌だったな」 気がつけば、その声は私の真上から振ってきていた。 足下には布と、その下に柔らかい感触がある。 頭に乗る小さな重圧感。 その重さはゆっくりと背中へ降りていった。 頭から背中へ、何度もその動きは繰り返された。 「おはよう、レィレ。……今っておはようで良いのかな?」 くすくすと小さく笑う声。 その何処か遠慮がちな笑い声に、私はいつも顔をしかめていた。 あなたは本当に面白くて笑っているの? 尋ねたかったその時に、私は喋る術を持っていなかった。 でも、今となってはそんな質問は解決している。 彼女の周りの人間に、大声で笑える者がいなかっただけなのだ。 歩く力さえない彼女を前にして、誰もが大声で笑うことを躊躇った。 人は誰だって、学ばなければ何もできない。 満面の笑みを知らない彼女が、それが出来ないのは当然のことだったのだ。 「懐かしいなぁ……この感覚。 私が寂しいときはいっつも膝の上に乗ってくれたよね。 あのころのレィレも私の言葉や、気持ちが分かってたのかな?」 その手は止まることなく私を撫で続ける。 その感覚にまどろみを覚えながらも、どこか不安を感じている私がいた。 だけど不安について尋ねたら、 このまどろみが壊れてしまいそうな気がして、私は口を開くことが出来なかった。 そんな私の心を察したのか、乗せられた手はふと止まった。 「何処だろうね、ここ。 私はあなたの記憶かも知れないし、 あなたは私の記憶かも知れない。 それとも普通に、ここは天国なのかもしれないね?」 でも。 その呟きが聞こえた途端、私の体はふわりと持ち上げられた。 その手は私の腰と腹に回され、背中からは暖かさが伝わってくる。 「そうだとしたら、ここはレィレにとってはまだ早すぎるのかな?」 早くなんてない。 早くなんてなかった。 ここは、私が求めていた場所。あなたの腕の中。 むしろ遅すぎたぐらいなのだ。 ここに辿り着くために、一体私はどれだけの苦労をしたことか。 本当は、もう一度あの家に、あなたの家にあなたと共に帰りたかった。 だけど、そんな願いはもうどうでも良い。 あれから何十年と経った今、あの家にかつての人々がいるとはとても思えないし、 仮にいたとしてもその姿を見てあなたはきっと戸惑うだろうから。 だから、私はここで良い。ここが良いのだ。 「そうだ、これ見て。レィレにそっくりでしょ?」 私の体は再び布の上に下ろされ、目の前に何か白いものがぼんやりと浮かんでくる。 しっかりと形を持ったそれは、先程棚の上で見た歪な猫の人形だった。 レィレにそっくりでしょ? その言葉を頭の中で繰り返して、私は吹き出した。 形は何とか猫に見える程度。 所々糸が解れていて、まるで使い古されたようにさえ見える。 そもそも私はいつから白猫になったというのか。 だけど、頬に押しつけられたその人形はとても暖かかった。 先程背中で感じたのと同じ暖かさ。 「私ね、ずっとここで待ってたんだよ……」 再び浮遊感を覚え、視界がぐるりと回る。 次に私の目の前に現れたのは……そう、忘れもしない、あなたの顔。 その顔はいつものように、申し訳なさそうな笑みを浮かべていた。 そんな顔をしないで。 あの時いつも叫んでいた言葉は、結局あなたに届くことはなかった。 だけど、今なら。今なら届くだろうか。 あなたに満面の笑みを教えることが、出来るだろうか。 「レィレ……今まで、お疲れさまでした」 PR |
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